● 2018年9月2日放送
観相学の祖である藤木相元先生が亡くなられ、早4年。
藤木先生が遺していかれたものを、きちんと広めていくために、新しい取り組みを始めたという浄幸先生に、あらためて色々なお話をうかがいました。
そもそも藤木相元先生とは、どんな方だったのでしょう?
4年前に91歳で亡くなられた藤木先生について、良い機会なので、きちんと教えていただきました。
実は藤木先生は、第二次世界大戦で特攻隊員であり、3度も『特攻命令』を受けながら、命拾いされています。
今の時代であれば、確実に『死』を意味する『特攻命令』を受けて生き残ることができたことは、『強運』とされますが、当時の日本では、『非国民』のレッテルを貼られるような不名誉なことです。
先生ご自身、「死に損なった」とおっしゃり、生き残ったことを悔いていたそうです。
そんな藤木先生が本土に還って見た光景は、一面の焼け野原。
せめて自分にできることをしようと、町おこし、世直しに精力的に取り組まれたそうです。
そして、鎮魂のために沖縄に骨を拾いに行く決心をされます。
沖縄には、多くの戦友や、献身的に兵士を助けてくれた『ひめゆり部隊』の女学生たちの骨が、まだまだ残っていたのです。
しかし、当時の沖縄はアメリカの領地で、一般の日本人が出入りできませんでしたが、唯一、お坊さんだけは入ることができることを知った藤木先生は、僧侶になる道を選んだのです。
藤木先生は、京都の鞍馬寺のご住職のご縁で修行を受け、僧籍を得ることとなったのですが、このことが、日本で『観相学』という学問が花開くきっかけとなるのです。
というのも、この鞍馬寺にこそ、1600前に達磨大師が遺した『観相学』の元となる書物が保管されていたのです。
達磨大師といえば、『禅宗』と『少林寺拳法』の祖として、世界的に有名ですが、もう一つ残されていたものが『観相学』だったのです。
どういう経緯で、その書物が日本の鞍馬寺にやってきたのかは、謎ですが、どうやら、当時中国から日本に最初に入って来た仏教と一緒に運ばれてきたようです。
なんにせよ、千年以上の時を経て、起こるべくして起こった奇跡的なご縁で、藤木先生は、この『観相学』の書物を手に沖縄に入られたそうです。
昼間は骨を拾い、夜は『観相学』の書物を読む毎日。
この時も天の計らいで、中国から来ていたお坊さんの手助けを受けることができ、一緒に中国語で書かれているこの本を紐解くことができたのです。
こうして数年かかって骨を拾い集めてできた慰霊碑が、現在のひめゆりの塔の横にある石碑。
今、『ひめゆりの塔』があるということも、藤木先生の功績なのです。
そしてこの後、さらに天から定められたご縁の連鎖がありました。
沖縄の地で出会ったのは、あの宝塚の祖、小林一三さん。
その後、東京に戻ってから、小林氏からのご縁で、松下幸之助さんとも出会い、その松下幸之助氏から命を受けて、当時の最先端である脳科学の全過程を東京工業大学の聴講生として受講し、さらにはドイツに渡って脳科学をさらに深く学ぶことになるのです。
観相学の生みの親、達磨大師は、運勢と顔の関係を説いてはいますが、観相学と脳科学との因果関係を直結させ紐解いたのは、ほかでもない、藤木相元先生なのです。
先生ご自身の人生の出来事どれ一つ欠けても、『観相学』が、日本で花開く可能性へとは繋がりません。
まさに、運の賜物。
さらに、こうした運をつなげるのは『ご縁』なのです。
この藤木相元先生とのご縁により、そのエッセンスを一身に受けて後を継ぎ、世の中につないでいこうとしている方こそが、浄幸先生なのです。
そして今、日比谷線沿線で、都電の終点でもある三ノ輪にサロンを開く計画を立てていらっしゃいます。
藤木先生が遺した観音様を、皆さまが集える場所に設置し、気軽に訪れて、心を清めたり、運を切り開いていくための観相学を直に学んだりすることができるサロンになるようです。
サロンの完成が実に楽しみです。
詳しくはどうぞ動画をご覧くださいませ。
「運気を開くために、先生にこんな質問をして欲しい」
というご要望も、お待ちしております。
● 人生を変える。 運を変える。
顔の情報を読み取り分析することで、
人生を切り開いていく科学が観相学なのです。
● 輝く顔があなたの人生を変える!
日常の中のちょっとしたことから
運気をアップできるヒントが綴られています。